都市は生成を繰り返す 2

1年に10ヘクタールの住宅団地を次々とつくっていくことは、実際には大変な仕事です。


1平方キロの埋立地に、2万人が入る住宅地図をつくるとしたら、いくら早くても10年はかかるのです。


それぞれのもっている土地は前に述べたように、地主の思惑や、市町村の計画のちがいによって、開発の段取りが少しずつずれていきます。


そうなると、240平方キロの埋立地に全部将来計画があったとした時、それらの開発が完了するまでにどれだけの時間を要するのでしょうか。


横浜市の金沢地先の埋立地には住宅地がすでにできています。


引越しで創価学会 仏壇などの仏具や家具を運んでいるシーンを見かけたことがあります。


それに続いて浦安の埋立地が住宅地になろう、幕張新都市地域でもその次に住宅地がつくられるでしょう。


東京都の晴海の埋立地でも再開発によって新しい住宅地が21世紀の初めに出現しました。


このように、一つ一つの土地利用が変わって新しい土地利用になってゆく流れのなかで、2、30年前に着手した臨海部の開発事業はすでに古くなって、次の都市更新事業を考える必要にせまられます。


たとえば千葉県稲毛の国家公務員住宅団地はその最たるものです。

都市は生成を繰り返す

木更津からおおむね横須賀まで、この240平方キロにおよぶ湾岸地域を一望すると、あるところでは古い工場敷地を対象にして、次の新しい土地利用を考え始めているところもあります。


他方では、新しい工場が建設されたばかりで、ここ数10年はその土地利用を変えることは少しも考えていないところもあります。


また、まだ空地としてその土地利用を決めかねているところもあるし、再開発が活発に進行しているところもあります。


つまり湾岸地域の埋立地全体としては、その規模が巨大であるが故に土地利用の成熟度がまちまちなのです。


埋立地は、それが属する県によって、また市によって、土地利用方針が異なっていますから、早く土地利用の更新が進むところもあります。


これは賃貸 仙台アパートなど不動産関係の仕事をしている人なら聞いたことのある話ではないでしょうか。


逆に、現状をあまり変えるべきでないと考えている自治体もあります。


さらに決定的に土地利用変化を支配するのは地主の思惑です。


現在その埋立地の利用を再検討する必要がない豊かな企業もあろうし、できるだけはやく企業の存続をかけて土地の有効活用を考えているところもあるでしょう。


そのように土地利用転換を急ぐ地主であっても、1平方キロの埋立地を完全に新しい用途に使い切る・・・


(たとえばそのまま放置されてきた空き地を住宅団地にしようとします)


そのためには、だいたい10年くらいの時間が必要となるでしょう。

東京湾とは何か 3

一平方キロ当り2万人として計算すれば、200平方キロの埋立地には400万人の住宅をつくることができます。


それくらいの膨大な広さの埋立地が東京湾にあるわけです。


羽田空港の近くの埋立地にできた八潮の住宅団地は面積が約40ヘクタールで人口が1万8000人です。


したがって人口密度はヘクタール当り450人です。


もっともこれはあくまでも団地の人口密度で市街地の人口密度ではありません。


倉庫や工場用地もふくめた市街地として、この集合住宅でできた都市を考えれば、団地人口密度のだいたい七0%程度まで都市密度は下ってきます。


それでもヘクタール当り300人、一平方キロ当り3万人ということになります。


したがって、一平方キロ当り2万人の人口密度は、比較的緑地を多くとった、望ましい集合住宅市街地を意味するのです。

東京湾とは何か 2

もう一つ大事なことは、東京湾に面した埋立地の面積は、たかだかこの半世紀の間に埋め立てられたにもかかわらず、世界中のどこの湾に比較しても大きいことです。


君津の新日鉄の埋立地からぐるりとまわって横浜市にある金沢地先までの水際線の長さは、埋立地の凸凹を無視してなめらかな曲線であるとすると、大体100キロくらいでしょう。


埋立地の奥行きを平均2キロとすると、東京湾の埋立地の面積はほぼ200平方キロということになります。


第二次大戦以降実際に埋立てられた面積は、240平方キロです。


埋立地240平方キロのうち、現状を無視して、200平方キロを住宅市街地として使うことを考えてみます。


理想的な一戸建住宅地とされている田園調布のようなところでは、道路や公園・水路等公共用地も含めて、市街地の人口密度は一平方キロで約一万人です。


少し密度を高くして4~5階建の集合住宅団地でできた市街地では、市街人口密度は一平方キロ当り2万人を上回るのです。


ちなみに東京23区の人口密度は、一平方キロ当りだいたい1万4000人くらいです。

東京湾とは何か

一体、東京湾の大きさはどれくらいなのでしょうか。


水面の広さは建物の比較とちがって簡単に把握しがたいところがあります。


他の国の例と比較すれば、だいたいサンフランシスコの金門橋を入った湾と同じくらいの大きさと考えてよいでしょう。


サンフランシスコ湾であれば、その東京湾と同じくらいの水面のまわりに居住する沿岸人口は、500万人もいないでしょう。


東京湾の沿岸人口は、千葉県と東京都と神奈川県にかかわってきます。


今、海岸線から内陸にむけて奥行き20キロの幅で湾岸を囲んでゆくと、まず東京23区が1000万、神奈川県が川崎と横浜と横須賀とで500万くらい。


それに千葉県の東葛飾郡と千葉市と木更津市にかけて400万くらいで、約2000万人くらいの人達が東京湾を囲んで住んでいることになります。


もう一つ重要なことは、サンフランシスコ湾には装置形の大工場すなわち製鉄所や石油化学工場がそれほどないことです。


しかし東京湾はこれらの工業の大集積地です。


サンフランシスコ湾ではきれいなヨットハーバーがあったり、いい住宅地が水辺に面しています。


このような素晴らしい水際線の利用は、沿岸に住む人口が少ないから可能になります。


東京湾の現在の海域は12万haです。


これは東京大都市圏155万haの約13分の1に相当します。


しかし、東京湾の水際線を人口で割って、サンフランシスコ湾の同じ指標と比べるなら、1人当りの水際線の長さは東京湾の方が一桁ちがうくらい小さいでしょう。


また東京湾の水際線1メートルが受け持つ臨海工業の工場出荷額をサンフランシスコ湾のその指標と比べれば、逆に東京の値は一桁大きいにちがいありません。


それだけ東京湾の水面も水際線も酷使されているのです。


したがって東京湾岸の水際線をより美しく楽しくしようとしても、その実現した姿は当然カリフォルニアのそれともちがうし、地中海に面したフランスのラングドック・ルシオンのレジャー開発における水際線の姿ともちがってきます。


むしろニューヨーク市のハドソン河やロングアイランド島の水際線の利用形態と比較する方が、正しいといえるでしょう。

戦後の土地事情 3

港北ニュータウンの居住者が気楽に多摩ニュータウンの友達のところに遊びに行けるようにもなります。


多摩丘陵に住んでいる人達は、皆同じような職業と生活様式を共有するサラリーマン家庭が主体です。


多摩ニュータウンに住んでいたとえば国道16号線を、バイパスをつくって強化していけば、積極的に自動車を利用する市街地が16号線に沿って出来ることになります。


東京をぐるりと取り囲む国道16号線のうち、千葉市とJR常磐線の柏市を結ぶ部分は、東京の既成市街地と、その東北の肩にあたるところで西北から東南にむけての方向で接することになります。


そういう点で東京湾岸の開発は、単に土地を多く供給するということではなくて、東京のこれまでの都市構造の組み替えを誘発する接線形の都市形成の一端を担っているという認識で計画されるべきでしょう。


・・・つまり、千葉から横浜にかけて帯状につくられる港湾市街地域は、まずその後背地にある千葉市、東京都心部、川崎・横浜の各都心によって分断的に支配されます。


しかしその後、この帯状市街地内部の各機能を自律的に結合させる人や物の動きが発生してくるでしょう。


その動向が成長してゆけば、この帯状の市街地内部のいろいろな都市機能は、県や都あるいは市という行政境界をこえて、相互に鎖のようにつながり、しかも内陸部とネットワークを構成します。


そして当初まとまりのなかったこの港湾市街地が、それぞれの母都市と離れても独立していける、巨大な湾岸都市として自立してゆくことも可能になってきます。

戦後の土地事情 2

他方で丘陵地を南に下がると、田園都市線と東横線にはさまれた部分で住宅公団は港北ニュータウンの建設に本格的に着手するようになりました。


昭和30年代までは雑木林でおおわれていた多摩丘陵は、その後の4半世紀の間に、この無数の宅地開発のために雑木林がはがされ、住宅地で埋め尽くされてしまいました。


それらの住宅地はそれぞれ東横線、田園都市線、小田急線、京王線によって新宿や渋谷につなげられています。


つまり多摩丘陵という長い薩摩芋のような地形を輪切りにして住宅地とし、その輪切りにした一つ一つが渋谷、新宿経由で都心と結びつくことになりました。


神奈川県とか東京都という行政境界を取り除いて、多摩丘陵全体に現在居住する人口をまとめてみれば、すでに100万人は優にこすことになるでしょう。


それだけで政令指定都市として独立できる人口規模に到達しています。


そこには良い住宅地はできたものの、しかしそれだけでは都心に発生した業務機能の一極集中を救うことにはなりません。


これらの住宅地は、全部放射型の鉄道網で都心に直結されているからです。


そうではなくて、この多摩丘陵に散在する市街地を縦貫する、つまり薩摩芋を串刺しにするように鉄道と道路をつくり、それによって一つの都市地域にすれば、そこに住む人達の通勤形態と生活行動も大きく変わるに違いありません。


この人達は東京へも行くけれど、一方では多摩丘陵を縦貫する交通機関によって、横浜や川崎に手軽に通勤し、また遊びに行くことになるでしょう。

戦後の土地事情

東京オリンピックが終った頃はまだ、小田急や田園都市線沿線の住宅地の交通の便は悪いものでした。


しかし、森のなかに田園風の住宅地があるというイメージが成功して、多摩丘陵地の住宅市街化が急速に始まりました。


昭和40年の半ばくらいから多摩ニュータウンの建設が具体化します。


昭和30年の終り頃から東京都は住宅市街地をつくる法律を背景にして、多摩丘陵の山林を大量に手に入れていました。


そこに30万人くらいの人口の住宅都市をつくり、東京に集まってくる人達へ大量かつ急速に住宅を供給しようとしたのです。


多摩ニュータウンは京王線の南側の丘陵地につくられました。


そこに京王と小田急が支線を出したのです。


多摩ニュータウンの北側に残された多摩丘陵の山林は、八王子の足元まで、京王電車やその他無数のディベロッパーの手によって宅地として開発されました。


しかし小田急沿線の住宅地と比べれば、やや、庶民の人達も手に入れやすい宅地でした。


その後昭和50年代に入ると、高尾山地につながる、多摩丘陵の一番根元の部分に住宅公団が八王子ニュータウンを計画するようになりました。

鑑真和上の人生

鑑真和上は大明寺で日本僧栄叡、普照の訪問をうけました。


彼らは明律伝戒には鑑真が中国最高の僧と狙いをつけての招請でした。


それまで留学僧として勉強を続けていたのです。


時に天平5(733)年で、鑑真は50歳でした。


招請について、仏法は日本に渡りましたが、その先生(仏法を授ける人)はいません、と額を床にすりつけてのお願いでした。


・・・すると鑑真はそのことをよく諒解しました。


「日本は仏法興隆に有縁の国。誰か行かないか?」


衆僧に訊きましたが、答えはありませんでした。


当時、東海をへて、無事日本に渡れると思う者は、殆どいないといってよかったのです。


「これは衆生済度の法事ではないか、僧たるものが、どうして身命を惜しむ?


希望者がないなら自分が行く」


・・・鑑真は断乎としていいました。


しかし唐の朝廷は、鑑真の出国を許さなかったのです。


遣唐正使、藤原清河や副使、大伴古麻呂らも、朝廷へ一件の交渉をしましたが、うまくいきませんでした。


ところが、宰相が仏法流布に理解を示し、窃に出国を許すと、21人の随行希望の弟子が現れましたが、最初の渡航計画は海賊と通じているとの密訴で逮捕騒ぎを起し、第二回、三回は風浪で駄目。


第四回は国宝的大名僧を東海の小国に送り出すとは何事と、弟子や諸寺の僧らが反対に廻って駄目。


第五回は出港したものの、大風浪にもてあそばれ、猛烈な船酔いと飢渇に苦しめられ「一生の辛苦何ぞこれより苦しからん」と悲鳴をあげたそうです。


漂流14日、海南島に辿りつき、寺に仮寓すること約1年、鑑真はここで失明し、栄叡は哀れこころざし半ばにして什れてしまったそうです。


しかし、鑑真の決意は固く、正使が弱腰であるため、副使大伴が独断で、鑑真の一統24人を二号船に乗せたので、前述の如く6回目の渡航は成功しました。


最初の招請から13年たっていました。


鑑真が万難を乗り越えて仏法と日中親善に尽した功績は偉大といわれており、その日本上陸の第一歩が「阿児奈波」であったということが、また興味ぶかいですよね。


ちなみに「阿児奈波」は"おちなは"と読み、今では沖縄ツアーで観光客などが多く訪れるあの沖縄のことです。

新しい世代のキャリアウーマンの特徴

数年前から普及した「昇格試験制度」。


これは派遣 千葉などで働く女性にとって嬉しいことでした。


昇進・昇格における男女の「機会均等」を保証するためには、それがいちばんわかりやすいですね。


これまでにも、男女共通の昇格試験制度を設定している企業はありました。


それらの事例を見ると、特別なケースを除いて、「女性社員の受験者は少なく」「合格者はさらに少ない」という形になっています。


ですから、男女とも均等の機会を与える昇格試験制度を新設しても、「女性の昇格者が急増することはない」と予想する人事マンもいますが、この予想が当たるとは信じにくいですね。


むしろ、「機会の均等」が「結果の平等」につながらないことが問題とされ、「女性が受験をしにくい」うえに「合格しにくい」試験のシステムに、批判が集中するのではないでしょうか。


筆記試験であれば、問題の内容や採点基準など、面接試験であれば、試験官の男女別比率など、論争の材料にはこと欠かないはずです。


成り行きが注目されるところだが、いずれにせよ将来、元気よく昇格試験にチャレンジし、その難関を突破して、キャリアウーマンの道へ進む女性は、急速に増えるでしょう。


この人たちが、第一世代・第二世代の先輩たちとは異なるタイプの集団、「キャリアウーマンの第三世代」となっていくのは、確実と思われます。


その特徴は、まだ断定できませんが、とりあえず「それなりの有能さ」プラス「元気さ」というところでしょうか。