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2010年12月 アーカイブ

戦後の土地事情

東京オリンピックが終った頃はまだ、小田急や田園都市線沿線の住宅地の交通の便は悪いものでした。


しかし、森のなかに田園風の住宅地があるというイメージが成功して、多摩丘陵地の住宅市街化が急速に始まりました。


昭和40年の半ばくらいから多摩ニュータウンの建設が具体化します。


昭和30年の終り頃から東京都は住宅市街地をつくる法律を背景にして、多摩丘陵の山林を大量に手に入れていました。


そこに30万人くらいの人口の住宅都市をつくり、東京に集まってくる人達へ大量かつ急速に住宅を供給しようとしたのです。


多摩ニュータウンは京王線の南側の丘陵地につくられました。


そこに京王と小田急が支線を出したのです。


多摩ニュータウンの北側に残された多摩丘陵の山林は、八王子の足元まで、京王電車やその他無数のディベロッパーの手によって宅地として開発されました。


しかし小田急沿線の住宅地と比べれば、やや、庶民の人達も手に入れやすい宅地でした。


その後昭和50年代に入ると、高尾山地につながる、多摩丘陵の一番根元の部分に住宅公団が八王子ニュータウンを計画するようになりました。

戦後の土地事情 2

他方で丘陵地を南に下がると、田園都市線と東横線にはさまれた部分で住宅公団は港北ニュータウンの建設に本格的に着手するようになりました。


昭和30年代までは雑木林でおおわれていた多摩丘陵は、その後の4半世紀の間に、この無数の宅地開発のために雑木林がはがされ、住宅地で埋め尽くされてしまいました。


それらの住宅地はそれぞれ東横線、田園都市線、小田急線、京王線によって新宿や渋谷につなげられています。


つまり多摩丘陵という長い薩摩芋のような地形を輪切りにして住宅地とし、その輪切りにした一つ一つが渋谷、新宿経由で都心と結びつくことになりました。


神奈川県とか東京都という行政境界を取り除いて、多摩丘陵全体に現在居住する人口をまとめてみれば、すでに100万人は優にこすことになるでしょう。


それだけで政令指定都市として独立できる人口規模に到達しています。


そこには良い住宅地はできたものの、しかしそれだけでは都心に発生した業務機能の一極集中を救うことにはなりません。


これらの住宅地は、全部放射型の鉄道網で都心に直結されているからです。


そうではなくて、この多摩丘陵に散在する市街地を縦貫する、つまり薩摩芋を串刺しにするように鉄道と道路をつくり、それによって一つの都市地域にすれば、そこに住む人達の通勤形態と生活行動も大きく変わるに違いありません。


この人達は東京へも行くけれど、一方では多摩丘陵を縦貫する交通機関によって、横浜や川崎に手軽に通勤し、また遊びに行くことになるでしょう。

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