戦後の土地事情
東京オリンピックが終った頃はまだ、小田急や田園都市線沿線の住宅地の交通の便は悪いものでした。
しかし、森のなかに田園風の住宅地があるというイメージが成功して、多摩丘陵地の住宅市街化が急速に始まりました。
昭和40年の半ばくらいから多摩ニュータウンの建設が具体化します。
昭和30年の終り頃から東京都は住宅市街地をつくる法律を背景にして、多摩丘陵の山林を大量に手に入れていました。
そこに30万人くらいの人口の住宅都市をつくり、東京に集まってくる人達へ大量かつ急速に住宅を供給しようとしたのです。
多摩ニュータウンは京王線の南側の丘陵地につくられました。
そこに京王と小田急が支線を出したのです。
多摩ニュータウンの北側に残された多摩丘陵の山林は、八王子の足元まで、京王電車やその他無数のディベロッパーの手によって宅地として開発されました。
しかし小田急沿線の住宅地と比べれば、やや、庶民の人達も手に入れやすい宅地でした。
その後昭和50年代に入ると、高尾山地につながる、多摩丘陵の一番根元の部分に住宅公団が八王子ニュータウンを計画するようになりました。